実録!秩父遠征
旅だ
今回、その他部部員3名で行ったのは埼玉県秩父市の浦山の消滅・限界集落群です。もともとは浦山口駅集合でしたが、本数が少ないため、結果的に御花畑駅で合流することになりしました。目的地へ行くための降車駅の浦山口駅は西武秩父駅直結の御花畑駅から2駅です。
まず向かったのは、駅から徒歩で行ける距離にある、橋立鍾乳洞(はしだてしょうにゅうどう)です。入場料は200円とお手軽。洞内は涼しく、非常に狭い箇所がたくさんあり、前へ進むには注意が必要です。
朝食は洞窟近くのそば屋でとる予定でしたが、「準備中」とのことでしたので日陰でバス待ちを兼ねて少し休憩をとることにしました。
栗山集落
鍾乳洞を見たあとは1日3~4便程度しか来ない秩父市営浦山線バスで「栗山」停留所まで行きました。「栗山」には栗山という消滅集落があり、そこを目指して、人気のない道を上っていきました。しかし、途中で舗装された道にさよならをし、傾斜が45度くらいありそうな道なき道を上ることになりました。幸い、その先には廃墟があり、しかもあまり荒らされていない様子でした(舗装された道から少し離れているからでしょうか)。
壁に掛けられたカレンダーは1988年の3月のままで停止していて、居間には1980年代のものと思われるナショナルのPana Color TH18-C16ブラウン管テレビが・・・。ちゃぶ台の上にはいまだに茶器と急須がおかれていて、27年間も放置されていたとは思えない様子でした。
1軒目の次に行った廃墟には1977年の5・6月カレンダーが未だにぶら下がっていました。外から伺っただけですが、1軒目と比べると、かなり中は荒れていました。2軒目を見た後は、道に合流し、道の先にも集落があるかと思い、しばらく道を歩きましたが、集落や廃墟らしきものは見当たらず、引き返しました(後ほど調べたらその先に集落はなかったので引き返して正解でした)。引き返した後は再び廃墟に遭遇し、3軒目には秩父警察署の張り紙があり、空き家が放火、破壊行為や盗難などの犯罪の温床になっているとのことでした。
谷沿いの大きい道へ戻った後は、大神楽方面へと向かいました。
大神楽集落
大神楽停留所付近に山奥へと続く道があり、その先に大神楽集落があります。舗装された道沿いにあり、一軒に関しては管理が行き届いていて、人が住んでいてもおかしくない様子でした。
薬師堂
大神楽より先の武士平を目指している途中、面白そうな建物を発見。後で調べると、薬師堂という仏堂でした。
コンピュータ
その他にもUV-EPROMや74型ロジックICがのっているおもしろそうな基板を発見しました。ICのタイムコードを見る限り、おそらく1982年製だと思われます。基板の真ん中にはシャープ版のZ80 CPU、「LH0080」が数個配置されていて、そのころのコンピュータだと思われます。色々調べた結果、1982年製のシャープのMZ-2000かX1だと思ったんですが、基板の色(写真では青であるのに対し緑)やケースの色、部品の配置の違いなどから違うと判明。分かる方がいましたらコメントください。
武士平集落
武士平集落には廃墟らしき建物が数件ありましたが、こちらもちゃんと管理がされている様子でした。また、人が住んでいそうな家もあり、あまり詮索しないことにしました。ちゃんとした道は武士平で終わり、この先のたわの尾根を越えるには山道を進まなくてはなりません。
たわの尾根
上り坂の山道を進んだ後、たわの尾根につきます。たわの尾根には小さい馬頭観音の石像があり、供え物がされています。ここで少し休憩するといいでしょう。たわの尾根から茶平集落方面に向かう道はほとんど下り坂で楽です。
途中、清流に差し掛かり、私(管理人)はそこの水を飲みました。とりあえず、腹は壊さなかったです(笑)。清流の水は透明で荒川の水源にもなっているような場所なのでたぶんきれいです。
茶平集落
下り坂の道を進む途中、山の川をかける橋を渡った後に道が3つに分岐します。茶平は細い上り坂の先にあります。坂の上には警ら箱があり、集落はさらに奥にあります。人は一人も住んでいないですが、水道?や蛇口は設置され、墓などは管理されているようでした。家は6軒くらいあり、そのうちの1軒は完全に崩壊していました。規模は大きいのですが、中が見える家を見るとかなり荒らされていることがわかります。中には家の中に入れないように玄関に板を張っている家もありました。
山から帰還した我々を迎えたのは1991年に完成した寄国土(ゆすくど)トンネル。トンネルのレリーフは「浦山の獅子舞」をモチーフにしたデザインだそうです。
帰り
帰りは寄国土トンネル付近のバス停から市営バスを乗車して、一人300円払って西武秩父駅の近くまでバスを乗ることにしました。
途中、運転手から興味深い話を聞きました。運転手によると、この付近の集落の多くはもともと炭焼きで生計を立てていた家庭が多かったといいます。冬は4時間くらいしか日が当たらず、この低温により、木は固く育ち、木炭に向くものになるのだという。しかし、灯油が普及し始めると、多くの人々は集落を離れ、このように集落は廃墟化したのだという。
西武秩父駅では土産を買い、そばを食べ、帰りました。ああ、文明素晴らしや。